長崎県平戸は、五島に近いところです。 ここにも、鉄川与助の造った美しい教会があります。
1. 紐差教会 ヒモサシ
大規模な天主堂で、旧浦上天主堂が原爆によって倒壊した後は、日本最大の天主堂といわれた。1929年(昭和4)紐差の町を一望する高台に建てられた。鉄筋コンクリート造で、梁に平行な梁間48尺(約4.5m)、棟に平行な桁行144尺(訳43.6m)と規模が大きく、特徴は礼拝堂の空間が二階に設けられている。外部はロマネスク様式で、内部にはアーチと美しいステンドグラスがはめ込まれ、鉄川与助(設計者)の特徴である花柄や葉の彫刻が豊かに飾られている。柱が少なく外観よりも大きな規模を感じる。
2.田平天主堂 タビラ
国指定重要文化財、鉄川与助が手掛けた赤レンガの天主堂
大正4年から3年の歳月をかけて、1918年に信者達が開墾した瀬戸山の地に信者たちの手によって建設されたロマネスク様式の荘厳な赤レンガづくりの教会。瀬戸山天主堂とも呼ばれており、教会堂棟梁・鉄川与助の代表作。5月にコンバス司教によって「日本二十六聖殉教者」に捧げて献堂された。総工費に2万円を要した。
色鮮やかなステンドグラスは、絵画を思わせる美しさ。十字架は高く輝き、アンジェラスの鐘は彼方まで響き渡る。教会の傍らには歴代の信者が眠る墓地があり、辺り一帯の風景は日本を遠く離れた異国の地を感じさせる。
明治時代にパリ外国宣教会のラゲ神父、ド・ロ神父らが私費で荒れ地を購入。そこに8家族を九十九島の黒島(佐世保市)や西彼杵半島の長崎市外海地区(小田平集落)等から移住させたのが田平天主堂の信者の最初である。当時は6畳ほどの集会所であったが、1879年(明治12年)に仮聖堂が造られる。その後も信者数が増え、1914年(大正3年)に着任した中田神父のときに天主堂の建立が計画された。
3. 生月島 山田教会
山田集落の高所に建ち、1878年に平戸に訪れたアルベール・ペルー神父の洗礼を受けた人々によって設立された教会で、1912年に鉄川与助の設計により完成したレンガ造りの教会です。特徴的なこうもり天井の脇には珍しい蝶の羽のステンドグラスに彩られ、内部には生月に関係した4つの殉教を紹介するレリーフなどが飾られています。
生月島は平戸から大橋を渡ります。 殉教の地で、キリスト教徒の方が多くいらっしゃいます。
山田教会の敷地内に
聖トマス西 六左衛門 列聖記念碑
記念碑には 1609年、聖トマス西神父は、1590年ガスパル西玄可の次男としてここに生まれる。 1620年頃、トマス西神父は修道者となるためマニラに渡り、ドミニコ会のロザリオ修道院に入った。 1625年、修道誓願を立て、修道名トマス・デ・サン・ハシントと言った。その後聖トマス大学で神学を学び 1629年ドミニコ会最初の日本人司祭となる。 1629年、厳しい迫害さなかの長崎に上陸し、日本の各地で迫害に苦しむ信者に献身した。しかし、 1634年8月、病気の同県神父の看病にあたっていた際、長崎で捕えられた。役人の棄教の脅かしにも耳を貸さず,再三の水攻めや竹串を指の爪の間に押し込まれるなどの拷問にも屈しなかった。 1634年11月11日、西坂の丘で、何日もの穴吊り刑を受けて44歳の生涯を終えた。 トマス西神父をローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は、1981年フィリピンで、他の殉教者たち15人とともに列福した。 1987年、同教皇は、この殉教者たちを「聖トマス西と他の15殉教者」として日本人では125年ぶりにローマで列聖した。教会は毎年9月28日をこの聖人たちの祝日と定めている。 「生月カトリック教会」
父親ガスパル様の「黒瀬の辻殉教碑」とお墓
平戸と生月の間にある中江ノ島を見下ろす黒瀬の丘にあるキリシタン・ガスパル西玄可が慶長14年に殉教した場所。平成3年(1991)にカトリック信徒によって十字架型の「黒瀬の辻殉教碑」が建てられ、毎年11月14日前後にミサが執り行われている。 ガスパル様 戦国時代、生月島南部を支配した籠手田(コテダ)氏の代官として山田、舘の浜を支配していた西玄可こと洗礼名ガスパルのこと。 西玄可は、慶長4年1599年、キリシタン領主の籠手田、一部氏が平戸藩主 松浦隆信からの弾圧によって長崎に脱出した後も島に残りキリシタンの指導にあたった。しかし、そのことが平戸藩主に知られ、1609年に、かつて十字架とキリシタン墓地があった黒瀬の辻「十字架の丘」で妻と長男と一緒に処刑された(殉教した)。墓のところに映えた松があるが、それをガスパル様の松と呼ばれる。
写真は上から
1.紐差教会外観と礼拝堂 2.田平天主堂と礼拝堂のステンドグラス 3.生月島の山田教会と礼拝堂 その敷地内にある聖トマス西殉教記念碑と父ガスパル様の